はじまりをしるす

 

2021年あけましたね。
世間のイベントごとに鈍感なわたしでもお正月はすこしだけ意識します。
誕生日でさえも流れていってしまうので(ていうかみんなどうしてるんだろう、ケーキすら食べなかった)、せめて年を越すことくらいは気にしてみるという感じです。
今回の年越しは、気のおけない友人の家にいったり、来てもらったりとサイコウでした。
その友人のうちのひとりに「かなちゃん、神社じゃん」と言われて笑った。
畠田神社だね。わたしの創作の原点です。。

引っ越してから読書というものが遠のいていて、本読んでてもなんか頭をすり抜けてしまう感じだったんだけど、最近また読書が楽しい。寒いからかな。
webメディアの連載とか記事を読むのもすきなんだけど、やっぱり電子パネル上の文字をスクロールして読むのと印刷された活字を読むのとは全然ちがう。
スクロールは流れてしまう。その気軽さはうれしいし、情報を得たりいい気持ちになったりすることもあるけど、それを追うこと自体につかれてしまうことがある。
読書は「本」という物体を「金を出して手に入れる」、または「図書館に足を運んで手に入れている」とかの能動的行動が読書という行為に向かわせる裏付けになるよなあと思う。
図書館で借りるというのは、「超読書期(自分比)」なら全然大丈夫なんだけど、読むかな〜読まないかな〜くらいの「やや読書期(自分比)」だと返却期限が負担に感じて読まなくなってしまう。「金を出して手に入れる」だと所有物になるのでいつでも読めるしいつでもやめれて気が楽である。


ここ近年めちゃ実感する、わたしは時間に縛られる行為を受け入れるのが難しい。
とくに映像作品。美術館とかギャラリーで映像作品を観るのはけっこうすきなんだけど、映画が観れない。いや観ろよって自分でも思うんだけど、平均90分〜120分画面の前から動けないと思うと苦しい。自分のタイミングで動けない。動いてもいいんだろうけどそれって作った側のひとからしたら違うもんね。それを思うと「…無理だ!!!」となってしまう。日本のドラマは1話40分くらいなので観れます。とても自分勝手ですね、自覚してますよ。
ということで枕元におきっぱなしだった積ん読や新たに購入した数冊を行ったり来たりしております。読み切ったらここに記していこうかな。

そしてまた走ることに燃えています。あと筋トレ。
走ること自体は10月くらいからサボり続けててやっとひさびさ年末に再開。体調がよかったのか10kmをグンと走り切り、それからまた走る楽しさを感じたくて。
筋トレは、なんとな〜くたまにやってたのを12月に入ってから毎日の習慣にしてみたら体重がストンと2kgほど落ち、ハマっている。
たぶん筋トレ自体は大したことしてないので、どちらかというと筋トレをきっかけにからだのことを意識していることがいいんだと思う。
からだを自分がきもちいい状態に保っておくことって大事なんだなと。
炭水化物ばっかり食べてると詰まる感じするな〜とか、野菜とかだけ食べてても満足感得られないな〜とか、ジャンクなものばかり食べてると気持ちがスカスカしてしまうな〜とか。
そんなこともあってここでのごはん日記はだいぶ助かってる。自分のからだと向き合う食事ログ。

ところでわたしは頑なに走ってることを「ランニング」と書かない(書けない)のです。ランニングってなんか、「やってる感」ありませんか…?
「ラン」っていうのはもっと無理です。なんでかな、と考えてたら思い出したこちらのラジオ番組でのやりとり。(24分ごろからです)

 


youtu.be

ここでの武田砂鉄さんのエピソード。
『通っていた高校が、元々食堂だったところをカフェテリアとしてリニューアル。当時の同級生はそこを「カフェテリ」と略しはじめた。そこで僕はもう彼とは仲良くなれないと思ってしまった。』というもの。
そのエピソードを皮切りに「女子をいつのまにか自然に下の名前で呼ぶ同級生」「三軒茶屋はサンチャと略すのに、なぜ祖師谷大蔵はずっとソシガヤオオクラのままなのか」という、名称に対するもやもやを吐露していくお二人。わたしは走ることはずっと「走ること」としていこうと思いました。わたしは「走ってる」という感覚はあるが、「ランニングしている」「ランしてる」という感覚はないもんな。それでいいのだ2021。

引き続き落ち着かない世界ですが、すこしでも自分が保てる状況をつくって生きのびていきたいものですね。

ではまた。